それはそれは神聖な

初日観劇してきました。

原作ノータッチだったので、とにかく話を理解するために、インプットスイッチフルだったのでひさびさに疲弊。でもそれはそれで楽しかった。

ちょうど直前に映画『はじまりへの旅』を観ていたため、《普通とはなにか》について思い巡らせてしまっていたのがまずかった。全く処理ができない!困った!

先述の映画とDefiledを考える上で類似している点は、ある一人の人物の信念に基づく行動は果たして正しいのか、正義であるのかというところだ。

主人公の考えは映画では半分認められ、Defiledでは否定される。否定されるというか、理解されなかったというか。なにより映画では賛同する家族という存在があるが、戸塚演じるハリーには味方がいない。だからこそカード目録を守ることでしか自分を認められなかったのだろうか。

途中で勝村演じるブライアンが、未婚である君にとって目録を守ることが全てかもしれないが、家族ができることでその中で起こることが全てになる、そんなこと考えられない、といったことを言っていた(はず。細かい点は曖昧だが。)
ではハリーに守る相手がいたら?同じことを考えたか?家庭のために仕事を続けるために考えを変えただろうか?
神聖なものを汚された、それはどんな環境にいたところで考えは変わらないのだろうか。

……舞台を観ながらざっと思ったことだけ挙げてもこのように疑問だらけだ。

映画では子供のためと思ってやっていたことが、その子供たちの命を脅かしてしまうという体験によって考えを捨てようとする。
しかしそれは亡くなってしまった妻、つまり子供の母親との約束でもあった。そして、それを理解しようと歩み寄ってくれたのは、その考えをある意味押し付けていた子供たちだったのである。

ではハリーは?ハリーを理解することは誰かにできたのだろうか。姉に電話したり、ブライアンからの電話を待ったり、誰かと繋がりたいという欲求は感じられたのだが、どうしたらよかったのか、だけが本当にわからない。

台詞の中でちょっとユニークってなんだとか狂ってるとか出てくる度に、映画のことがちらついて少しだけ集中力が切れたので、次回は最後まで向き合うことを目標にしよう。

そもそも宗教やら地域性やら、23階の笑いでも深く理解できなかった部分がまたネックになってる。うーん、そろそろ勉強しなくては。

とりあえず映画の方で気になるところがあったので、家にある哲学関係の本を読みます。


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毎度だけど舞台については完全には理解はできないからなぁ、自分の知識や引き出しのなさ、頭の回転の悪さが主な原因です。自覚してますはい。まぁでも特に熱海のときも思ったんだけど、罪を犯す人と犯さない人、、ってね。~~という人物がいたそうな。というところから自分なりの落としどころを見つけられたらいいな。
……よく考えれば熱海ぽいっちゃ熱海ぽいような。私のなかでね。


戸塚くんは頬がこけていたから千秋楽終わったらたくさんお肉食べてね……。初日はとにかく台詞と動きを間違えずにやるぞ!って意識だけはひしひし感じたよ。怪我なく最後まで駆け抜けられますように。